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ア・コルーニャの大燈台へ

                         2012年6月21・22日

 
 2,3年前のことではなく10年前のことなので、記憶が定かでないのだが、たぶん6月21日の午後、ア・コルーニャの町に帰り着いたときは夕方になるような時間帯に、町から2キロ余り離れて、半島の岸辺というより丘の上に建つ大灯台を訪ねた。
 大灯台は18世紀に修復・再建されたもので高さは55メートル、下部の34メートルはローマ時代からのものということらしいが、外観上、上部と下部を識別できるものはなく訪問者が目にするのは、18世紀の新古典主義の端正なフォルムをもつ四角形(上の灯火部分は八角形)の塔である。
 一定程度の高さまで登ることができ、そこから周囲を見渡すことができるが、当然のことながら内部にエレベーターはなく階段を上る。私もそれをした。
 歴史的な建造物という意味では、下部の2世紀(ローマ期)ごろからの部分が重要になるが、わけても礎石部分が相対的に細く高い塔を支えるものとして重要になる。実際に、現在は発掘調査的に地下に掘り下げて、初期の燈台の礎石部分を公開している。
 大燈台は「ヘラクレスの塔」と呼ばれたりするが、これは全く現代の命名で、長く「ブリガンティウムの塔」と呼ばれてきたようだ。ブリガンティウムは「ガリシア」の古名ということらしい。もっとも、ブリガンティウムはラテン語の発音なので、古代のガリシア人たちが自分たちの土地をそう呼んでいたわけではあるまい。それはガリアにしてもブリタニアにしても同じだが。
 もう一つ、大燈台「ヘラクレスの塔」周辺で注目すべきは、お土産物店・レストラン・カフェなど、あれば繁盛するであろう商業施設が何もないことである。独裁者フランコ時代またはそれ以前の時代からの継続なのかもしれないが、それはそれで立派なことである。
 また、ア・コルーニャの町から大燈台までは海岸沿いに広い遊歩道とサイクリングロードが設置され、燈台への歩いての往復を心地よいものにしている。



        大燈台への道は、まずア・コルーニャ郊外の海水浴場脇を通る。        

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 海岸通りの広い遊歩道  レンガ色の大きめの街灯が立っているが、そこにはエマーユ風の絵がはめ込まれている。      

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 街灯にはめ込まれた絵の作者を紹介するプレート。  上の画像、海側にある手すりの並びの中央部分に設置されている。      

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 街灯にはめこまれている絵 ① 紹介プレートでは500の数字があったが500個あったか、100個はあった気がするが。      

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  街灯にはめこまれている絵 ② 海側に手すりが見えている。高さは1、5メートルほど、縦の楕円形のフレーム。      

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     街灯にはめこまれている絵 ③ 海の生き物と女性の顔の組み合わせが多い。      

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               街灯にはめこまれている絵 ④       

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              街灯にはめこまれている絵 ⑤        

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  海が見える緑の大地にあった慰霊のモニュメント。 スペイン内戦のとき亡くなった共和国派の人々を悼むもの。近くに座っていた女性がそう言ったと思う。フランコ時代以後のもの。読めなかったが、石に何か刻んである。      

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     大燈台が見え始めた。見ての通り、付近に商業施設らしいものはなく緑の大地が広がる。        


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  このモニュメントは大燈台が見える場所にあった気がする。 特別なメッセージはないと思う。スペインにもある巨石文化を連想させるもの。      

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        大理石の大きな羅針盤か。このモニュメントは大燈台の近くにあった。        

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    ア・コルーニャの大燈台。 外観は18世紀ごろの建造物。      

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    燈台内の上に登る階段。 この部分は昔からのもののようだ。      

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                    大燈台からの展望。        

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    ここからは大燈台の台座から地下にかけての部分。  ローマ時代の建造物か(?)。      

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 通路といくつかの小室がある。 燈台の明かりは、昔は灯油。この付近に置かれていた灯油の壺を、ローマ人のことだからと担いで上に持っていかず、何らかの手法で上に引き上げていたか?。      

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 上の2枚に写っているどこかの構造物の壁。 古い時代のものだと思えば、なんとなく見る価値があると思い、しばらく立ち止まった。      

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   台座付近またはその地下の考古学的な保存部分。  保存されていた昔の台座部分。      

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              発掘された昔の燈台の基礎部分。        

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              帰るとき撮影した燈台のシルエット。        

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  「近頃(再び)読んだ本」  

   是枝 裕和 著 「雲は答えなかった」 PHP文庫                            
   
 この欄はロマネスク関連、西ヨーロッパ中世史、最大枠を広げてヨーロッパ文化に影響を受けた人々の著作を取り上げてきたのだが、この本はちょっと例外。あえてヨーロッパ関連で言えば、カンヌやヴェネツィアで近年よく受賞する映画監督が30年ほど前に出版したドキュメンタリー本である。
 著者は、最初テレビのドキュメンタリー番組制作のため福祉関連の(高級)官僚にかかわり、その生涯を追ったようだ。この本は、さらにその人物の幼少期から死までを丹念に振り返ったものである。関係者からの聞き取りや文字資料を丁寧に当たりながら、その視点は巨視的かつ多角的である。 現在、著者が「そして父になる」「誰も知らない」「海街diary」「万引き家族」その他で、世界的な映画監督になっているのも、この観察力と人への共感性あればこそ、である。




  一か月ほど旅に出るため、旅の準備とその後の休養のため、しばらくブログを休みます。再開は7月下旬の予定です。 


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ア・コルー二ャのロマネスク 2

                     2012年6月21・22日


 
 ア・コルー二ャの旧市街には二つのロマネスク期に起源をもつ聖堂がある。サンティアゴ聖堂とサンタ・マリア・デル・カンポ参事会聖堂だ。見て回ったのはサンティアゴ聖堂の方が先だが、教会としての格式は「参事会」の名が付されている通り、今回紹介する、サンタ・マリア聖堂の方が上なのだろう。規模はそれほど変わらないが、こちらの方はガリシア風の高い十字架が立つ前庭がありロケーションはいい。
 サンタ・マリア聖堂も大きなバラ窓がありタンパン彫刻をもつファザード扉口があるのだが、もちろんタンパン彫刻の題材は異なる。
スペインのロマネスク・サイトから、この聖堂の解説を見つけ出せず、これは日本の方の訪問記「フォアグラ・ロマネスク」からの引用なのだが、タンパン周辺の彫刻の題材は「聖母子に礼拝する東方の三博士」とのこと。 
 私はこの彫刻を見また撮影しながら、ぼんやりしていて何も感じなかったのだが、フォアグラ・ロマネスク氏によると、タンパンをとり巻くアーキヴォルト彫刻の聖人像は11人、タンパンの中の彫刻は聖母子と三博士、それともう一人いる(確かに)。そのもう一人とアーキヴォルトの11人の聖人像で十二使徒ではないかと推定している。想像力の働く人はいろいろ考えをめぐらすものである、どうなんだろう。
 なお、この聖堂の側面にも通用口のような扉口があり、ここにもタンパン彫刻と扉口両側面にコーベル彫刻がある。
タンパン彫刻は聖女らしい女性と4つの車輪。フォアグラ・ロマネスクによれば、聖カタリナを描いているとか。「謎めいた彫刻だがロマネスク的な素朴さが捨てがたい」とある。
 なお、私はキリスト教の殉教者、聖カタリナ(アレキサンドリアのカタリナ)について何も知らなかったのだが、ウィキペデアを見ると興味深い記述がある。「伝説によれば、聖カタリナは4世紀初めローマ帝政下エジプトのアレキサンドリアで殉教した少女。その死は絞首刑だったそうだが、その前に彼女は車輪に手足をくくりつけられて転がされるという拷問(処刑)が命じられた。しかし、彼女が車輪に手を触れると車輪はひとりでに壊れてしまったそうだ。そこから『カタリナの車輪』は彼女の象徴になった。彼女は多くの職業の人の守護聖人であり、オックスフォード大学べリオール・カレッジ、パリ大学の守護聖人でもあるという。」
 ア・コルー二ャは町もそれほど大きくなく、清潔で落ち着ける。観光客が集まる町でもあるようだ。安全そうなので、夜一人で外出してみた。広場で、器具・用具(鉄の旋回するアームや光る球)を用いてパフォーマーが演技をしている。動きは激しくなくマリオネットのようだ。ライティングの妙で、パフォーマーは男女とも色気のような人を魅了するものがある。日本の田舎町では、なかなか見かけないものだった。(タイトル画像も広場のパフォーマンス)



         サンタ・マリア・デル・カンポ参事会聖堂を周辺より一段高い前庭から見る。        
              
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              サンタ・マリア・デル・カンポ参事会聖堂ファザード      

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         構成比からいうとタンパンが小さく、アーキヴォルトが大きく深い。      

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        タンパン彫刻の聖母子+東方三博士+一人とアーキヴォルトの聖人彫刻。      

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 サンタ・マリア・デル・カンポ参事会聖堂の堂内。 三廊式で身廊と側廊を仕切るアーチが美しい。東側(内陣側)の上部にもバラ窓がある。    

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          サンタ・マリア聖堂の石の厚みを感じさせる重厚な堂内。     

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        堂内の彫刻。 改造を経て彫刻はゴシック様式。    

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  サンタ・マリア聖堂後陣付近の外観。 方形のものに半円の後陣が付くという二段構造になっている。    

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              聖堂東側の屋根・頭頂部の風化した彫刻。      

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              後陣付近の軒下持ち送り彫刻 ①      

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              後陣付近の軒下持ち送り彫刻 ②      

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              後陣付近の軒下持ち送り彫刻 ③      

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 サンタ・マリア・デル・カンポ参事会聖堂のもう一つの扉口(通用口)の彫刻群(タンパンとコーベル)。      

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                 タンパン彫刻の「聖カタリナと車輪」      

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                     コーベル彫刻(左)      

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                     コーベル彫刻(右)      

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              ア・コルー二ャ、夜の広場のパフォーマーたち ①      

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               ア・コルー二ャ、夜の広場のパフォーマーたち ②     

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ア・コルーニャの博物館・ロマネスク

           2012年6月21・22日


 
 21日朝、バスでフェロルからア・コルーニャに向かう。バス・ターミナルでバスを待っていると釣り道具を持っているおじさんが、似たような時刻にア・コルーニャへの直通バスがあるので、それに乗った方がいいと教えてくれる。同じア・コルーニャ行でも、生活路線バスの方は小さな村々を小まめに停まりながら行き、直通(ダイレクト)バスは主要な2,3のバス停で停まるだけでア・コルーニャへ行くようだ。
 釣り道具を持っているおじさんに私が何か尋ねたわけではなかったのだが、リュックを背負った外国人がア・コルーニャ行のバス停に立っている、それだけでア・コルーニャに行くつもりと、事情を察してくれたようだ。なお、少し英語を話すおじさんも同じバスに乗り込み、内陸部のバス停で下りた。海の町フェロルには海釣りを楽しむ人は多いが、このおじさんの釣り道具は渓流釣りのそれだった。
 ア・コルーニャでは一泊して、港の入り口にある要塞・サンアントン城、二つのロマネスク聖堂、やや郊外にあるローマ以来の大燈台を訪ねた。サンアントン城は、今では歴史・考古博物館になっている。二つのロマネスク聖堂とは、市内にあるサンティアゴ聖堂とサンタ・マリア・デル・カンポ聖堂のことである。
 この記事では歴史・考古博物館(サンアントン城)とサンティアゴ聖堂を取り上げることとする。

 

   ア・コルーニャは「ガラスの町」といわれるぐらい、表通りにはガラス窓を多用した建築が多い。        

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                  港近くの公園で出会った彫刻。      

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      港を守る城塞 「サンアントン城」  現在は歴史・考古博物館。   

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  歴史・考古博物館の内部。  陶器のコレクション。数は膨大、スペイン製。まだ、磁器は製造できていなかった時代のもののようだ。    

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提督・船長などの帽子。 ヨーロッパの絵画や映画に登場する、博物館に展示してあるので本物だと思う。    

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 沈没船から引き揚げられた(?)壺。 古代のものかもしれない。展示品はそれほど秩序だっていない。    

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 数多くの丸い石。 これも沈没船から引き揚げられたものだと思う。ということは、中世の大砲の「砲弾」?。    

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       古代(ローマ期?)の釣り針。 よく残っていたと思う。    

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        古代~中世の燈明台。 よくコレクションの対象になる。    

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展示品としての修道院・聖堂の彫刻 ① 説明板を見ると、彫刻はロマネスク風だが14世紀の作である。    

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              展示品としての修道院・聖堂の彫刻  ②     

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          展示品としての修道院・聖堂の彫刻  ③  うずくまる龍か。    

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 展示品としての聖堂の柱頭彫刻  右手の説明プレートに「柱頭」の文字がわずかに見えている。    

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「石の顔」 不思議な彫刻だった。顔だけでなく、身体のほかの部分もある程度あったはずだが、展示されていたのはこれだけ。    

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私の博物館見学時間帯は、研修できている16,17歳の男女の生徒の見学時間と一緒だった。大勢いたので館内でも賑やか。引率の50歳ぐらいの男の先生が「うるさくてすみません」と私のところに謝りに来られた。私も現職時代は同業者だったので、この年頃の生徒をコントロールすることの難しさはよくわかっている。女の子はちゃっかり早めに見学を終え、屋上で写真を撮りあって笑いころげていた。      

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 シェルターに覆われた屋外に、バイキング(?)の船が展示されていた。イギリス、フランス、イベリア半島(地中海沿岸も含む)は彼らの活動で大きな影響を受けた。おそらく遺跡の出土品から復元したものだろう。      

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 町中にあった12世紀創建のサンティアゴ聖堂。 大きなバラ窓や扉口が尖頭アーチになっていることからわかるように、ゴシックに改造されている。    

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サンティアゴ聖堂ファザード扉口付近。  扉口両側には聖人彫刻、側柱には柱頭彫刻、上のタンパンとアーキヴォルトには彫刻、さらに上の壁にはモジョン彫刻と、考えられる彫刻はすべて揃っている。    

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タンパン彫刻は、イスラムとの戦いに馬に乗って現れたという伝説のサンティアゴ像。  これがタンパン彫刻に用いられるのは珍しいが、創建期からあるものではなさそうだ。   

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              サンティアゴ聖堂ファザード扉口・柱頭彫刻 ①      

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              サンティアゴ聖堂ファザード扉口・柱頭彫刻 ②       

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              アーキヴォルト頭頂部の彫刻。      

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              サンティアゴ聖堂ファザード扉口・左側面の聖人彫刻。      

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               サンティアゴ聖堂ファザード扉口・右側面の聖人彫刻。      

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 サンティアゴ聖堂・南扉口。  記憶があいまいなのだが、撮影時刻から見て、この聖堂には通用口としての南扉口があったようだ。タンパン彫刻は「神の子羊」像なのだが、足の形からわかるように、これはあまり出来のいいものではなかった。    

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       サンティアゴ聖堂・南扉口付近については、右コーベル彫刻の辺りをアップで。                        

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リバデオからバスでフェロル へ

 2012年6月19・20日


 
 ピ二ェラの巡礼宿と夕食を食べた巡礼受付のあるバルとの間の田舎道には幾種類もの花が咲いていた。園芸品種も混じっていたのかもしれないが、それを撮影してしばらく過ごした。撮影したときは雨は降っていなかったのだが、この日も日中何度か雨が降った。雨が降った後の植物は生き生きしている。
 翌朝、ピ二ェラからまた歩く始めた。きょうもスティーフが一緒。ただ、それは始めのうちだけで、しばらく経つと、後になり先になり別々に歩き始めた。スティーフとの会話のネタも尽きかけた感じ、主に話しているのはスティーフだが。
 15,6キロ歩いて、ラ・カリダッドという町に着いた。そこのバス停に、昨夜、巡礼宿で一緒に泊まった5,6人のスペイン人・イタリア人混成グループがいる。「どうしたんですか」と聞くと、雨が降って歩きにくいし、自分たちは20余キロ先のリバデオにバスで行くという。スティーフは近くにおらず別れたようなかたちになっていたので、私はこのグループと一緒にリバデオに行くことに。
 実際このとき雨が降っており、薄手のアノラックを着ていたのだが、アノラックが雨に濡れ、防水加工のとれた布地が身にまとわりついて寒かった。バスの中は当然のことながら、風も吹かず、それなりに温かく、ほっとしているうちにリバデオに着く。
 リバデオは港町、大きな入り江の中に町も港もある。リバデオでは曇り空ながら、もう雨は降っていなかった。町を離れ、郊外の入り江の出口に近いところにある巡礼宿に向かう。
 途中、食事を出すバルがあり、ここで遅い昼食。巡礼宿は例によってオスピタレイロは常駐せず、警官が巡回の途中、立ち寄り、受付をして去っていった。警官の来訪とどちらが先か忘れてしまったが、地方紙の新聞記者がやって来て、どこから来たのかとかインタビューし、写真を撮って引きあげて行った。スペイン語の質問だったので、もっぱらスペイン人巡礼者が答えていたが、この記事が翌日または数日後の地方紙に掲載されたかボツになったかは、翌朝早めに町を去った私には不明。
 巡礼路は、海岸沿いの道はここが最後で、これからは南下する内陸路になり、大聖堂の町モンド二ェードを経由して「フランス人の道」に合流する。
 私には出発前からたどるルートについて二心あった。リバデオから先、ロマネスクのないルートでも興味関心を持ってたどれるならそのまま巡礼路を歩く。どうしても退屈するなら、フェロル経由で古い燈台とロマネスクのある町ア・コルーニャに行き、その後「フランス人の道」に合流する。この場合移動はすべてバス。
 私は後者のルートを取ることにして、翌朝、フェロル行バスに乗った。直接、ア・コルーニャに行かず、なぜフェロルにしたかはっきりした理由はない。昔から軍港の町として知られるフェロルを経由するのなら、下りて見ておきたかったというところか。



                ピ二ェラ・路傍の花 ①       

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                ピ二ェラ・路傍の花 ②        

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                ピ二ェラ・路傍の花 ③    

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                ピ二ェラ・路傍の花 ④        

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                 ピ二ェラ・路傍の花 ⑤        

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      ピ二ェラからしばらく歩いてバルで朝食。 このクロワッサン、形がよくテカテカ光っていた。      

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 バルのコーヒー・メーカー。  田舎者の私にはこんなものも珍しい。仕事柄(高校教師)、地方の一つの県の中を定年まで転勤していた。    

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  リバデオの港(いくつかある港の一つ)。向こうに見える海は、その先に陸地が見えるように、外海ではなく入り江の内海。    
    
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   これは同じ港の見える丘から、眺望としては反対側、入江の出口にかかる橋(ハイウェイ)を見る。        

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  上の2枚の港からの画像より、実際の行動はこちらの方が先だったのだが、バルでの昼食はこのスープ(?)がメインだった。スペインにも「出汁」の感覚はあると思う。        

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  リバデオの入り江の出口に近い公園の中にある上が展望台になっている巡礼宿。       

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 巡礼宿でのスペイン人・イタリア人混成グループの食事の様子。 グループの中に料理の得意なイタリア人がおり、この夜は彼が腕を振るうとか。私も誘われたのだが、すでに夕食・朝食を買い込んでいたのでご遠慮申し上げた。料理が完成して彼らが食事を始めたのが午後10時。普通の巡礼宿なら消灯時間。ただ、大人のグループだったので話し声も小さく、隣のベッドルームで私が寝入るのに支障はなかった。彼らの美食へのこだわりはすごい。      

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20日朝、巡礼宿からリバデオの町中へ引き返す途中の陸橋の下にあった「落書き」  『ガリシアはスペインじゃない』とある。ガリシアもまたガリシア語という独自の言語をもち、バスクやカタルーニャ同様、自治・分離傾向がある。      

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    フェロルの港。 軍艦は見当たらなかった。海軍の埠頭は、また別にあるのかもしれない。      

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               これは階段に設置された彫刻。       

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     フェロルのバル。 水兵や船乗りが立ち寄りそうなところだった。      

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 バルに置かれていた(?)貝殻。 様々な貝殻の形は、地球上で人が目にすることができる不思議な造形物の一つだ。      

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 町で出会ったデモ隊。 差し迫った要求ではなく和やかな雰囲気。日本でデモ隊を見かけなくなった、私も40年以上デモに参加していない。社会性と政治性は結びついている。とすると、日本人から社会性が失われ、マス・メディアによる世論操作(世論形成)のみが横行している(?)。      

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 チェコの乗用車「シュコダ」 町で時々見かけるが、仏・独・日の乗用車ほど多くない。デザインにもそれほどの個性は。低価格が魅力なのではないかと思う。      

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ルアルカ・ピ二ェラ

 2012年6月17・18日


 
 カダべドからは、オランダ在住・オランダ国籍のインドネシア人スティーフと一緒に歩いた。180センチ近い長身、よくしゃべる。私はもっぱら聞き役だが、彼の体験談が多かったような気がする。私の英語力もいい加減なので、どこまで聞き取れていたのか(?)。
 カダべドからルアルカまでは15キロ強。内陸部を歩く、いささか平凡なルートだった。
 着いたルアルカは港町。漁港の感じだが、半ば観光地。港の風景を楽しみ、レストランで新鮮な海鮮料理を味わう、そんな場所。今、グーグルマップで見るとホテルも何軒かあるようだ。
 巡礼宿は確かにルアルカにあったのだが、そこは港から1キロ余り内陸部に行った道路わきの公営巡礼宿。巡礼者が少ないルートの常として夕方オスピタレイロがやって来て受付をし、いくばくかの宿泊料を受け取ってゆくスタイル。
 翌18日も、内陸部の平坦な道を15キロ、ピ二ェラまで歩く。歩き始めて間もなく、廃墟に出会った。「サンティアゴの教会と墓地」みたいなことが書いてある。10世紀のプレ・ロマネスク期の廃墟だとも。その昔、サンティアゴ巡礼者のための教護院的な役割を果たす活動をしていたところだろうか。
 17・18日とも天気は基本曇り。時々雲が切れて日が差すかと思うと、小雨の時間帯がある、すっきりしない天気だった。
 ピ二ェラは内陸部の街道沿いの平凡な村。だが、巡礼宿としては整っていたといえよう。
巡礼受付は家族でやっているバルのような建物だった。夕食もここで作ってくれるとのことで頼む。宿泊棟は受付所から少し離れており、元は教会の施設だったような大きな建物。この日は自転車乗りの一団と一緒だった。私は田舎町で暮らしているので、車は必需品だが、仕事をリタイアしてから、自転車も時々乗る。そして車・オートバイ・自転車など見るのも好きだ。
  ピ二ェラの巡礼宿ではスペインの自転車乗りが、いろんなタイプの自転車に乗ってきており、じっくり観察させてもらった。

 

 カダべドから歩き出して間もなく出会った聖堂。 完全に改修され白い漆喰で覆われているが、形から見ると創建はロマネスク期かもしれない。      

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 かなり大きな川に出会う。 日本ではこの大きさで両岸に護岸工事がされていない川には、まず出会えないだろう。    

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       この地方でも大きな川らしく、「エスバ川」という表示板が立っていた。      

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ある商店の奥に置かれていた盆栽。 管理に慣れていないのか植物はちょっと元気がなかった。日本からの輸入品だろう。    

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       17日昼頃、港町ルアルカが見える高台にやって来た。     

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                 坂道を下り、港へ。      

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 着いたルアルカの港は、大型の漁船は少なくレジャーボートが多い。港の岸壁近くの市街は、漁港臭さは薄く、小ぎれいなレストランやホテルが並ぶ。      

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                 スティーフと二人で入ったレストラン。     

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            一皿目はやっぱり魚のスープ。      

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      ルアルカの港から離れた公営巡礼宿。 いささか殺風景だったが、造りはしっかりしていた。    

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        18日、ルアルカから歩いたところにあったプレ・ロマネスク期の廃墟。      

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 一個の建物というより、小さいながらそれなりの規模を持っていたようだ。 修道院と巡礼者の救護院を兼ねたような役割を果たしていたのだろうか。    

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              上の画像に見える説明板を近づいて撮ったもの。      

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 途中立ち寄ったバル。 スペインのバル(本場のバル)は家族連れが立ち寄ったり、老人がカードを楽しんだりするところだが、ここは「バー」の雰囲気に近かった。    

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     ある個人住宅の庭先にあった傍を通る巡礼者の眼を楽しませるためのお飾り。      

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            つづれ織りの坂を上ってくる スティーフ。     

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   ピ二ェラの巡礼宿。、元は教会の施設だったのだろうか。後ろに十字架のある尖塔が見える。    

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   二人乗り自転車と牽引する荷車。 車体にロゴがあるので既製品のようだ。    

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       自転車で巡礼する人は、このようなマウンテン・バイクが多い。      

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       この自転車、変速機も日本製だったのだが、ペダルも日本製だ。      

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プロフィール

翁岳(おきなだけ)

Author:翁岳(おきなだけ)
若い頃、1969年から数年間屋久島の山に登っていた。現在はリタイアの年金生活者。ここのところ、毎年、主にスペインを巡り、ロマネスクの彫刻・建築を見ることを楽しみにしている。趣味:テニス、陶芸、ストレッチング、素潜り。

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